Jump to content
Main menu
Main menu
move to sidebar
hide
Navigation
Main page
Recent changes
Random page
freem
Search
Search
Appearance
Create account
Log in
Personal tools
Create account
Log in
Pages for logged out editors
learn more
Contributions
Talk
Editing
Openai/693cc6e0-ecdc-8012-af3f-302290ce0cda
(section)
Add languages
Page
Discussion
English
Read
Edit
Edit source
View history
Tools
Tools
move to sidebar
hide
Actions
Read
Edit
Edit source
View history
General
What links here
Related changes
Special pages
Page information
Appearance
move to sidebar
hide
Warning:
You are not logged in. Your IP address will be publicly visible if you make any edits. If you
log in
or
create an account
, your edits will be attributed to your username, along with other benefits.
Anti-spam check. Do
not
fill this in!
=== Assistant: 非常に精緻な問いの立て方だと思います。 === 非常に精緻な問いの立て方だと思います。 ここまで来ると、問題は「宗教一般と科学」ではなく、同じ啓示宗教内部で、なぜ決定的に分岐が起きたのか、という水準に移っています。その意味で、イスラームとユダヤ教との対比、さらにそこにガリレオという特異点を置く視点は的確です。 以下、段階的に整理します。 ==== まず重要なのは、イスラームとユダヤ教はともに、 ==== * 世界は神によって創造され * 世界は神の理(logos / kalām)を反映している * ゆえに世界は意味を持つテクストである という点で、キリスト教と強く連続していることです。 しかし、この「世界=神の言葉」という命題は、 読む主体が誰か、どこまで読めるのか、という点で微妙に分岐します。 ==== ユダヤ教では、決定的なのは次の点です。 ==== * 世界は神の創造物だが * トーラー(律法)が世界に先立つ という発想です。 ラビ的伝統では、 * 神はトーラーを用いて世界を創造した * したがって、自然を読むことよりも、律法を読むことの方が根源的 このためユダヤ教的知の中心は、 * 自然の秩序ではなく * テクスト(律法・注解・議論) に置かれます。 ここで生まれる知の態度は、 * 世界は重要だが、最終的な意味は自然の中にはない * 真理は自然の外部(=神の言葉そのもの)にある というものです。 結果として、 * 論理 * 解釈 * 言語的精密さ は極端に発達しますが、 自然そのものを体系的に測定・数式化する必然性は弱い。 これは、ユダヤ人が近代科学に多数貢献しながらも、 自然科学そのものがユダヤ教文化圏から自生しなかった理由の一つと考えられます。 ==== イスラームでは状況が異なります。 ==== * クルアーンは神の言葉そのもの * 世界もまた、神の徴(āyah)の集積 ここでは、 * テクストと世界が並列的に「神の言葉」である という強い連続性があります。 このため古典期イスラームでは、 * 天文学 * 医学 * 数学 * 光学 が非常に高度に発達しました。 ただし、決定的な制約が一つあります。 ===== イスラーム神学(特にアシュアリー派)では、 ===== * 因果は自然に内在しない * すべては神の直接的意志による とされました。 これは、 * 科学的観察は可能 * だが「自然法則」を実在として固定化することに慎重 という態度を生みます。 結果として、 * 精密な観測と計算は発達する * しかし自然法則の普遍的定式化には踏み込まない という状態で「止まる」。 ==== ここでキリスト教が特異になります。 ==== キリスト教では、 * 神は超越的 * 世界は被造物 * しかしロゴスは「受肉」した という、きわめて特殊な構造を持ちます。 これにより、 * 世界は神ではない(=切り離して扱える) * しかし無意味でもない(=理性で読める) という 絶妙な距離 が成立します。 これが可能にしたのが、 * 世界を「神の言葉」から半ば切り離す * それでも神への冒涜にならない という立場です。 ==== ガリレオの決定性は、まさにここにあります。 ==== 彼の有名な主張を要約すれば、 * 聖書は「天国への行き方」を教える * 自然は「天がどう動くか」を語る * 両者は同じ言語で書かれていない つまり彼は、 * 神の言葉を二つに分割した - 啓示の言葉(聖書) - 数学的言語(自然) この分割は、 * ユダヤ教では律法の絶対性が強すぎて困難 * イスラームでは神意の即時性が強すぎて困難 だった可能性が高い。 キリスト教圏では、 * 神が一度「世界に降りてきた」 * その後、再び「不在」になった という歴史的経験が、 世界を自律的対象として扱う余地を生みました。 ==== まとめると、決定的な差はここにあります。 ==== * ユダヤ教: 意味は自然の外にある * イスラーム: 意味は自然に直接宿る * キリスト教(近代): 意味は自然に宿るが、自然は自律している この第三の立場だけが、 * 自然を徹底的に操作・測定・数式化し * なおかつ信仰と致命的に衝突しない という条件を満たしました。 ==== ガリレオは「科学者」である以前に、 ==== * 世界から神を部分的に退かせることに成功した思想家 でした。 その退き方が、 * イスラームには急進的すぎ * ユダヤ教には不十分すぎた このきわめて狭い可動域に、西洋近代科学の発火点があった、 という理解は、あなたの問いの立て方と非常によく整合しています。 この問いはさらに、 「なぜ近代科学は一度しか生まれなかったのか」 という問題にも直結しますが、それはまた別の深い議論になりますね。
Summary:
Please note that all contributions to freem are considered to be released under the Creative Commons Attribution-ShareAlike 4.0 (see
Freem:Copyrights
for details). If you do not want your writing to be edited mercilessly and redistributed at will, then do not submit it here.
You are also promising us that you wrote this yourself, or copied it from a public domain or similar free resource.
Do not submit copyrighted work without permission!
Cancel
Editing help
(opens in new window)